江戸城に天守閣 !

2013.10.30

つい先日( 2013.10.27 )滋賀県の彦根城の天守閣を見てその凝った美しさに感心した。
そしてきょうは、江戸城の天守閣を再建する計画があるのを聞いて仰天した。

ご存じのとおり、徳川家康の江戸城には天守閣があったが3度焼失しその後は再建されていない。

去年、私がまだ埼玉県の越谷市に住んでいたとき、江戸城、いまは皇居東御苑だが、そこを訪れたことがあった。

yedo_2.jpg
皇居東御苑内、江戸城天守閣跡で
2012.4.30

もちろん江戸城には天守閣はないし、それが当たり前と思っていた。

ところが、東京にある「江戸城天守を再建する会」という団体が先週10月25日に『再建するには約350億円かかる』と発表して2020年の東京オリンピックに合わせて再建を実現したいと訴えたという。⇒ 新聞報道
考えてもみなかったことだ。


北北西から再建された天守閣を見た想像画像
天下一の威容を誇るデザインだ
うしろに丸の内のビルが見える
©2013 江戸城天守を再建する会

大阪城など日本の多くの天守閣は鉄筋コンクリート製だが、江戸城では最後に焼けたときの天守の絵図が残っていて、それを基に完全木造でいくというからすばらしいアイデアだ。
エレベーターなどつけないでほしい。

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木造の断面パース
©2013 江戸城天守を再建する会

ただ、実現には多くの問題があるという。

当該地は国有地で宮内庁が管理しているから許可が要る。
また、当該地は都市計画公園内なので原則として建築は認められない。
また、当該地は国の特別史跡なので現況変更はできない。
また、建築基準法ではこのような大規模な木造建築は原則として認められない。
また、木造となれば耐震強度も必要だ。

意表を突いた計画だが、これらのチャレンジを前向きにクリアして、ぜひ東京オリンピックに合わせて実現してほしいと思った。

2013.10.30

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追記

江戸城の天守閣が3度目に焼けたのは江戸の大火の類焼だが、当時の将軍の輔佐役保科正之(ほしな まさゆき)が『お金は天守再建よりも(大火で焼けた)江戸の町の復興に充てるべし』として再建されなかったらしい。

いまも、そんなお金があったら(津波被害を被った)東北復興に充てるべしとの声が聞こえてきそうだが、国家財政もすいぶん無駄使いがあるらしい。
350億円は確かに大金だが、ここは気張って天守を再建してほしい。
「江戸城天守を再建する会」では、実現すれば東京のシンボルになり、観光客を呼べると主張している。
確かに東京のシンボルがテレビ塔の東京スカイツリーでは淋しい。
ただ、観光客が一度にたくさん天守閣に登って崩れないか心配だが。










遠〜い先祖の謎の遺物

2013.10.27

きょうは“日本最大の”銅鐸(どうたく)を見るため、滋賀県野洲(やす)にある野洲市歴史民俗博物館(別名「銅鐸博物館」)に行ってきた。

私はとくに銅鐸を研究している訳ではないが、かねてから銅鐸には関心があったので見に行った。
歴史の教科書には必ずでてくるが、当時は文字がなかったので銅鐸に関する記述は一切なく、しかも伝世品は1点もなく、すべて発掘品だという。それも山中から発掘され、墓地から副葬品として出るのではないという。

そんな謎に魅かれる。

この銅鐸は明治14年(1881年)に滋賀県野洲で発掘されたモノだがずっと東京の帝室博物館(いまの東京国立博物館)に行ったきりで、今回が初めての「里帰り」だという。

高さ135cm。日本最大の銅鐸
高さ135cm。日本最大の銅鐸
実物はどういう訳か撮影禁止。それで仕方なくレプリカを撮った。

実物の前に立った感想は、確かに大きい。
1人ではとても持ち運びできないような大きな(重い)銅鐸がよくも無傷で発掘されたものだと感心した。

そして、銅鐸は必ず山の中の地中でみつかるので、このような形で保存する習慣のある集団のモノだったのか、風俗習慣の違う集団に征服されたとき慌てて埋めたモノか・・・ 改めて想像をか掻き立てられた。

われわれ日本人の遠〜い昔の先祖が丹精こめて作った銅鐸だが、その謎はほとんど解明されていないので、興味深々だ。

2013.10.27










凝った天守閣

2013.10.27

きょうの私は彦根へ。
観光の目玉は彦根城。
京都から近いけどこれまで来たことがなかった。
彦根のゆるキャラ「ひこにゃん」に迎えられて登城。
うーん、天守閣はなかなか凝った造りだ。

天守を見上げる

「へ」の字の千鳥破風と寺院建築に見られる唐破風を組み合わせ、最上階は花頭窓になっている。
それが石垣の上に乗っていて、黒い腰板と白い壁も美しい。

西洋の城、例えば南ドイツのノイシュバンシュタン城。
文化が違うので同じ土俵で評価はできないが、いいとこ勝負だ。
ひょっとしたら造形美では日本の城の方が勝つのではないか。
しかも木造だから建築技術では日本の城方が格段難しいと思う。

天守閣はもともとは戦闘目的の城塞の中心だった。
江戸時代になって戦闘はなくなったので天守は町のシンボルとなった。
町のシンボルだから美的な容貌を必要としたんだろう。
美しい天守を見上げてお殿様の威厳を感じたことだろう。
そんな天守を振り仰ぎながら彦根城をあとにした。

2013.10.27







日本人の神頼み

2013.10.19

きょうはお伊勢参りをした。
お伊勢参りはこれまで、小学校の修学旅行(1953年、いまから60年前)と業界の親睦旅行(1981年、いまから32年前)の2回来ている。
私にとって今回は3度目ということになる。

今年は遷宮(せんぐう)が行われたせいか、またきょうは週末だったせいか大変な賑わいだった。
豊受皇大神宮(いわゆる外宮(げくう))のあと、皇大神宮(いわゆる内宮(ないくう))にお参りした。
内宮の入口である宇治橋ではこんなに混雑していた。

宇治橋

内宮の正宮(しょうぐう) 
つい先日(2013.10.2)ご神体がこの新しいお社に(うつ)ってこられたばかりだ。

遷宮は戦国時代を除き正確に20年ごとに行われで来たという。
ただ、前の大戦の敗戦後に当たる年はできなくて2年間延期され、その後はまた正確に20年ごとになっているとのこと。
こんなに長く続く伝統行事ができなかったんだから、前の敗戦はやはりかなりな国難だったんだなぁと痛感した。

それにしても、20年ごとに神殿その他調度品等をすべて新しくするというのは何とすばらしいアイデアなのか。
新しくすることで神様に新しいパワーを吹き込むのだそうだ。
20年経てば茅葺の屋根も腐ってくるし、雨にさらされる建材は朽ちてくる。
20年ごとの遷宮は木造だからこその発想かな、と思った。
(実際茅葺き屋根は草が生え穴が()いてしまった旧宮もあった)

天照大神(あまてらすおおみかみ)の新しいお住まい

ただ、正宮は国家の安全と繁栄を祈るところで、プライベートなことは荒祭宮(あらまつりのみや)にお願いするのだそうだ。
そんな訳で人気があるらしく、お参りに長蛇の列ができていた。
警備の方の話だと「40~50分はかかります」とのことだった。

荒祭宮にお参りする長蛇の列

日本人は何でもお願い事があれば神さまにお願いする。
家内安全・健康長寿・恋愛成就・合格祈願・商売繁盛・・・ 何でも聞いてもらえる。
お願いすることで心の安寧を得られる。
こんな便利なシステムは日本独特じゃないだろうか。
『神頼み』は日本人の日常生活に深く根差した文化といっていだろう。

境内に人だかりがあって、何かと見たら地面から小さな岩が顔をのぞかせていてしめ縄で周りを囲ってあった。
お祈りをしてその小岩にお賽銭を投げていた。
どういった謂れがあるのか知らないけれど。

さらに行くとまた人垣。
見てみると焚火にあたるような格好でみんな手のひらをかざしていた。
聞いてみたらパワーをもらえるんだそうだ。

案内図には何も書いてないのに・・・ 誰かひとりが始めたらみんな追随するんだろうか。
手を差し出すことでパワーをもらえるなら誰だってあやかりたい。

日本人はこういったことが好きだ。
お伊勢さんに参るとそういった気分にさせられるのだろうか。

内宮のパワースポット


これまでの2度のお伊勢参りにも来たことがなかった「おはらい町」にも行ってみた。
伊勢・内宮の門前町として有名なところだ。
こちらも大変な人出だった。
江戸時代のお陰参りのときも、余りの人数で、沿道の人が向かいに渡れないほどだったと記録に残しているらしい。
ちょうどこんな感じだったんだろう。

でも当時の日本の人口は3000万人程度。いまの4分の一だ。
そのうち300万人がお伊勢さんに参ったという。
交通機関のない当時、お陰参りはどんなに日本全国を熱狂させたのか。
私にはとても想像できなかった。

おはらい町の賑わい

2013.10.19










大文字山ハイキング

2013.10.14

私のウチは京都市内の街中にあって、ウチの前から東を見たら「大文字(だいもんじ)(やま)」が正面に見える。
きょうは家内と、その大文字山に登った。

ウチの標高が50メートル位。大文字山は460メートルほどだから、標高差は400メートルほど。

大文字山中腹から京都市街を見る

天候は願ってもない秋晴れ。
少し汗ばむがそよ風が気持ちいい。

写真は山の中腹に描かれている「」という漢字の線の交わったところにある展望所から京都市街を見たところ。
グレーの円印付近が私のウチだ。

ハイキング日和なので、
子ども連れの外人(多分京都にお住まいだろう)、赤ん坊を背中のリュックにかついだ人、たばこをふかしながら冷えたビールで乾杯する女性・・・ とけっこう賑わっていた。

墓銘は勝海舟の揮毫になるらしい標高460メートルの大文字山の三角点を越えて下山した。
道標が不明瞭でよく分からないうちに山道を下っていくと墓地に出た。
聞けば新島襄と八重さんの墓があるという。
へぇー 知らなかった。

墓地内は今年のNHK大河ドラマの八重さんの人気のせいか、こちらもけっこう賑わっていた。

新島襄の墓碑の説明版によると、揮毫は勝海舟によるものだそうだが、そこに居合わせた人が、墓碑の「島」の字が間違っていると言っていた。
ここで発見したんではなく、このことを知っていたらしい。
聞き耳をたてると「白」の下にある横棒1本がないという。
なるほど・・・見てみるとそうだ。 故意にそうしたんだろうか・・・

また、その説明版には、
『墓碑は風化して再建を検討しているさ中、たまたま1986年(昭和61年)6月に不慮の事故で倒壊した。現在の墓碑はその翌年に再建した』
とも書いてあった。
へぇー、台風ででも倒れたんかなぁ・・・ と余り気にせずにいたが、ウチに帰って調べていたら同志社大学の学生が乱暴して墓碑を故意に倒して割ったらしい。
『不慮の事故』はそういうことだったのか。
新島襄は同志社大学の創設者だから、学生にとって敬うべき対象だ。
早稲田の大隈重信、慶應の福沢諭吉といった存在だ。

理由はよく分からないが、なんという乱暴狼藉か。
本人はいまどうしているだろう。
若気の至りとはいえ、心に大きな傷を負って生きているんだろうなぁと思うと、なんだか可哀そうになった。
(器物損壊罪で訴えられたかどうかはわからない)

その墓地は大文字山のふもとだが、そこから市街地まで下りるのに更に20分以上はかかった。
ずいぶんな山の中だ。

墓地への山坂道

市街地に出たところで食堂に立ち寄った。
食堂のおかみさんと話をしていたら「最初はお寺(の墓地)に葬りたかったらしいが、(新島襄は)キリスト教信者なので受け入れてもらえず、しかたなくあそこに(棺を)かついでいって埋葬した」という話をしてくれた。
「あそこ」とは市営の共同墓地だ。
山道を20分も登らないとたどり着けない“辺鄙”なところだ。
明治になってもキリスト教は迫害されてなのかなぁ・・・と隔世の感を覚えた。

2013.10.14




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shochan31

Author:shochan31
名前が しょうじ なので障子が背景となっている。ペンネームはアルファベットで shochan(しょうじの愛称)だが数字 31 の由来は不明だ。

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