確信犯

2018.10.24

きょうの夕刊に 「中国でニセ展覧会」 という奇妙な見出しが目にとまった。
何のことだろうと興味に任せて記事を読むと、
『草間弥生と村上隆をかたった偽の展覧会が中国で開かれ、多数の贋作が展示された』 とのこと。

works_412.jpg
左・草間弥生と右・村上隆の作品例

草間さんや村上さんも展覧会には関与していないというから、中国の誰かが企画したものだろう。
ことし春以降、この展覧会は深圳、広州、武漢、上海と巡回して開催され、上海会場では1000円程度の入場料を取っていたという。
白昼堂々の行為 で、その大胆さに私は肝をつぶした。

記事
きょうの夕刊記事 (© 日本経済新聞 夕刊)

中国は宇宙開発やAIの分野などで世界のトップを行く技術を持っている反面、ブランド品、日本のアニメでコピーが横行していることも周知の事実である。

この事実をよく考えると、彼らは 「知能指数 」は高いんだろうが、往々にしてそれを悪用しているということだろう。
さらに言えば肝がすわっている。
確信犯 という訳だ。

希少価値のあるキャラクターグッズを日本に出張してきて転売目的で買い占め、ひんしゅくをかったこともあった。
買い占めを禁止する法律がないのを見ての確信犯だ。
ディズニーランドに似たテーマパークがすでに中国の6か所で作られているそうだ。
オリジナルのディズニーランドに似ているところと似てないところをごちゃまぜにして 「コピーじゃない」 と言い張っているそうだ。
こちらも確信犯だ。

なぜそんな 「悪ぢえ」 が働くのか?
中国人の拝金主義に起因する競争心か、はたまたそれは 〔悪いと思わない〕 中国人の天性なのか。 ( ← 倫理観の欠如 )
「中国人は・・・」 と十把一絡げにしてレッテルを貼りたくはないが、これだけ多発したら、そこに何かの共通項を見出したくなる。

同上の記事によると、「刑事告訴などの法的手続きを検討中」 とのことだ。
もちろん法的処罰も結構だが、それでは生ぬるくはないか。
世界に対し、彼らのこのような倫理観の欠如を改めるよう訴える必要があるのではないかと思う。
世界世論を背景にして中国に圧力をかければ、彼らも多少反省するのでないか。
(それこそ生ぬるいとお叱りを受けそうだが。)

中国は孟子・孔子を生み出した国で、我々日本人は多大な恩恵を受けている。
日本にとって、その他、漢字、宗教、思想など中国伝来の文化は枚挙にいとまがない。
紙の発明も彼の国だと言われている。
だから、私(日本人)は常に中国に感謝している。

しかし、倫理観を無くした現代の中国の状況を見るにつけ、その堕落には目を覆いたくなる。
なぜ堕落したのか?
不思議だ。

いまや中国はGDP世界第二で、アメリカを抜く勢いだという。
こんな (倫理観のない) 国に世界の覇権を握ってほしくない。
覇権を握られたら、人類の破滅だ。
思わず深いため息をついた。

2018.10.24





藤原道長の見た月

2018.10.24

藤原道長は絶頂期に 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」 と詠んだのは日本史上有名な話だ。
このことが書かれている『小右記』(しょうゆうき)によると、それは自分の娘の威子(いし/たけこ)が後一条天皇の中宮に決まったことを祝う宴席で詠んだそうだ。時に、寛仁2年(1018年)10月16日(14日?)。場所は自分の屋敷(土御門第、つちみかどてい)だった。

きょうは満月で、西暦2018年10月の満月の日。

暦
きょうのこよみ (© 京都新聞 )
ちょうど1000年前の10月の満月の宵だ。

土御門第があった場所は、いま京都御苑となっている。
私が現場に着いたら月はもう出ていて、東山(大文字山)の上にかかっていた。

満月
1000年前に土御門第があった場所から見る出たばかりの月 (2018.10.24 17:52 PM)

出たばかりの月は大きく見える。
これが1000年前に道長が見た月 なのだろうなと昔を偲んだ。

2018.10.24





般若心経で神仏に祈る

2018.10.5

ウチは浄土真宗なので般若心経(はんにゃ・しんぎょう)には縁がない。
私は以前、四国八十八か所を巡ったことがあった。
各寺に参拝するたびに般若心経を大師堂前と本堂前とで2回ずつ唱える。
単純計算で 88 × 2 = 176 回。
それに高野山にも参ったので、般若心経を唱えた回数はもっと多いだろう。

般若心経は7世紀に僧玄奘三蔵が中国(当時は唐)へ伝え、それを遣隋使の小野妹子が日本に持ち帰ったといわれている。
平安時代の初め(9世紀)、干ばつによる大飢饉、疫病の流行、財政難に困窮した当時の 嵯峨天皇は般若心経に救いを求め、書写されたされた。(『写経』)
それが弘仁9年、西暦818年のことだという。

般若心経は276文字という短い経本だが、嵯峨天皇は一字三礼(いちじさんらい)という礼節を尽くして書写されたそうだ。
それは、1字書くごとに3回、両手、両足、額を地面になげ伏して書かれたということで、天皇という高貴な方が頭を下げることなど前代未聞の光景だったといわれている。
ま、それほど困難が厳しくそれから逃れたい(国民を救いたい)という思いが強かったのだろう。
その願いが叶い、凶作や疫病は治まり、国に平和が戻ったといわれている。

模写
勅封般若心経復元模写 (© 川平愛撮影、2018.9.30 毎日新聞電子版より)

嵯峨天皇が在位中に(離宮)嵯峨院(いまの大覚寺)を新造してそこに移られた関係上、その霊験あらたかな般若心経は大覚寺に勅封されて保存された。
(勅封とは、天皇の許可なしに開封できないようにすること)

その勅封般若心経は爾後、60年に一度だけ封を解かれる(開封)しきたりとなった。
ことしは20回目の “60年” で、開封されることになった。
(つまり 20 × 60 = 1200 年、ことし 2018 年は弘仁9年(818年) から 1200 年目となる)

下の写真は、13 回目に開封された慶長3年(1598年) に記された開封記録である。
年号の下に 『戊戌(ぼじゅつ)』 と書かれているのは干支で、戊(つちのえ)戌(いぬ)である。
60 年ごとに同じ干支が回ってくる。

目録
勅封心経開封目録 (© 大覚寺、大覚寺プロモーションビデオから)

ことし、平成30年も 干支は 当然ながら戊戌 である。
戊戌の年に開封されるので、その行事を「戊戌開封法会(ぼじゅつ・かいふう・ほうえ)」という。

過去19回の「戊戌開封法会」では関係者のみの参拝だったそうだが、今回は歴史上初めて一般公開されるという。
期間は10月1日(開白法会、かいびゃく・ほうえ)から11月30日(結願法会、けちがん・ほうえ)までの2か月間。
全国にある真言宗の末寺の方々が 大覚寺 に参拝に来られる。
私が所属する団体で参拝者の案内を引き受けることになったので、私も出動した。

案内
大覚寺門前で (10月5日)

嵯峨天皇ご宸筆の般若心経は勅封の上 『心経殿(しんぎょうでん)』 の中にある櫃に納められているが、この期間は櫃から出してガラスケースに移されている。
参拝者は 「ギャーテー ギャーテー ハラギャーテー ・・・」 と般若心経の最後の文句を唱えながら経本を拝むことになる。

心経殿
心経殿に参る参拝者の列

私も嵯峨天皇の般若心経を見せていただいたが、巻頭の薬師三尊像は全く見えないし、経文もほとんど消えかかっている。
60 年ごとの開封の際、般若心経のありがたい功徳にあやかろうと(後世の天皇が)文字(金箔で書かれている)を削り取って白湯(さゆ)と一緒に飲まれた、そうな。

そんな状態だから、今回の開封にあわせて 嵯峨天皇が写経された弘仁9年、818年当時の状態を復元することになったという。
現代の最高の技術を駆使して出来あがったのが上の写真にある 『復元模写』 だ。

なお、霊宝館という建物にも、嵯峨天皇他に五人の天皇が書写された般若心経が展示されていた。
後光嚴天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町(おおぎまち)天皇、光格天皇である。
(嵯峨天皇を加えて全部で六人)
いずれも 『勅封』 扱いだそうだから、こちらも 60 年振りの開封ということになる。
(こちらも普段は 心経殿 に納められているそうだ)
その六天皇のうち、後奈良天皇、正親町天皇のお二人は経文のうしろに 『願文(がんぶん)』 といって、国家安寧 などの願い事を書いておられた。

私が所属する団体の大先輩は それを見て 「祈るしかなかったお気持ちを察して痛々しい」 と仰っておられた。
科学が発達していない当時は祈るしかなかったわけだ。
科学が発達したいまでは、疫病は神に祈る必要が(ほとんど)なくなった。
しかし、地震・台風など現代科学の手の及ば自然災害もあるし、景気や戦争などコントロールの難しいものも多い。
だから、現代の我々だって神仏に祈ることはたくさんある。
天皇陛下も毎日皇居で、国家の平安を祈っておられるという。
ありがたい国である。

2018.10.5





一応納得

2018.10.1

先日このブログで、河原院(かわらのいん)跡の石碑を見たことをレポートしたことがあった。 ( こちら、2018.8.31

石碑
河原院(かわらのいん)址の石碑

そのとき、碑文は 「坆付近源融河原院址」 と読める、と書いた。
しかし実際のところ一字目は「坆」ではない。
該当するフォントがパソコンになかったので、似たようなカタチのフォントでごまかしたのだ。

石碑
「□附近 源融河原院址」 と彫られている

正直なところ、一字目はなんと彫られているかよく分からない。
二字目は 「付」 の古体で 「附」 。
三字目はサンズイの点が3つある 「近」 だ。
読み方は 「此の付近」 だろうと想像がつく。

実は、この字体で 「□附近 云々」 と彫られた石碑は京都市内に多数ある。
大正から昭和の初期にかけて京都教育会が建てた石碑の多くはこの表記になっている。
たとえば近所に建っている石碑もこうだ。

石碑
□附近 聚楽第址 大正四年十一月建之

拡大してみるとこんな字だ。
碑文
もちろん当用漢字にはない。
漢和辞典を繰ってみても 該当する字はみつからない。

石碑
河原院址碑のクローズアップ  こちらも大正四年十一月建之

京都市の歴史資料館が編纂する 『いしぶみデータベース』 では 「此付近」 となっている。
しかしこの字は 「此」 かなぁ と首をかしげた。

石碑

なぜなら、左の 「止」 はいいとして、右は 「ヒ」 には見えないからだ。
左へのはらい (上の図の灰色の部分) は 「ヒ」 とは相容れない。

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それで、京都市歴史資料館に照会したが要領を得ない。
偶然にも先週、石碑の碑文やくずし字の権威であられる 先生に会う機会があった。
先生に恐る恐る聞いてみたら、それは 「此」 のくずし字だとして、ホワイトボートに書いて説明された。
でも、左へのはらい (上の図の灰色の部分) がどうも納得できなかった。
ただ、くずし字の権威者に対して反論するのは失礼だし、反論する勇気もなかった。

しばらく悶々の日が続いた。

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きょうたまたま 『異体字』 を調べる機会があったので 「此」 の異体字を見てみた。
インターネットのフリーグリフデータベース 『グリフウィキ (GlyphWiki) 』 というサイトである。

異体字

なんと50も 「此」 の異体字が列挙されていた。
その中で、左へのはらい のあるのが載っているではないか。
探すと 2つ あった。

異体字

(u6b64-itaiji-001) と (twedu-a02068-007)
(u6b64-itaiji-001) は ユニコード統合漢字 U+6B64、(twedu-a02068-007) は台湾教育部異体字字典 に載っている字だそうだ。
最後の点の打ち方から見て、(twedu-a02068-007) の方が似ている。

類似

ということは、京都教育会の石碑の一字目は台湾教育部異体字字典にも載っている 「此」 の異体字 だということになる。
えらい時間を費やしたが、一応納得することができた。

2018.10.1






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shochan31

Author:shochan31
名前が しょうじ なので障子が背景となっている。ペンネームはアルファベットで shochan(しょうじの愛称)だが数字 31 の由来は不明だ。

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