忠臣蔵 感激の場面

2013.12.14

きょうは12月14日、言わずと知れた“討ち入り”の日だ。

忠臣蔵といえば江戸や播州赤穂(あこう)が舞台だが、どうしても京都を外すわけにはいかない。
大石内蔵助(くらのすけ)が京都郊外の山科(やましな)(現在は京都市山科区)に隠棲していた、京都の遊里で放蕩しているように振る舞ったとか、ゆかりは多い。

きょうは、その山科で行われる『山科義士まつり』を見に行った。

四十七士に扮する義士の列のほか遥泉(ようぜい)院(浅野内匠頭(たくみのかみ)の正室 )などの婦人列、かわいい幼稚園児の義士列、あでやかな舞踊列も加わり、山科の地を約6キロもの長距離を行進する大規模なものだった。

義士表門隊の列
義士隊列

行列に先回りして、大石内蔵助の住まいの旧地にも足を延ばした。
その地は、いまは岩屋寺(いわやじ)というお寺の境内になっていた。

「右 大石良雄 山科 閑居址」碑
岩屋寺境内に立つ「右 大石良雄 山科 閑居址」碑

奉納 義士演芸まつり のプログラムさきほどの『山科義士まつり』の行列は、この岩屋寺にまでやってきて、最後はこのお寺に隣接する大石神社まで行く。

行列がやってくるまでまだ時間があったので、岩屋寺で振る舞われた温かい甘酒をいただいき、『奉納 義士演芸まつり』()で浪曲を聞いた。

演者は現役最古参という 98 歳の浪曲師 天龍三郎さんで、演目は「大石東下(あずまくだ)り」。

大石は、京都の天皇から江戸幕府へ勅書を届ける役目の「垣見左内」という人物の名を(かた)っての東下り。
難所の箱根も無事越え、あすはいよいよ江戸 - という日の神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)でのできごと。
本陣の門に「垣見左内様御宿」とあるのを見た宿場の役人が、同じ宿場の別の本陣にも「垣見左内様御宿」とあるのを不審に思ったのがきっかけで、二人の垣見左内が対面することになった。
本当の垣見左内は天皇の勅書を見せて我こそ本人だと主張。
一方のニセの垣見左内(大石内蔵助)は窮地に陥り、仕方なく血判状を見せる。
それを見た本当の垣見左内は即座にすべてを悟り、勅書までも大石に渡し、義挙の本懐を遂げさせる


という名場面だ。
天龍三郎さんは「こういったハナシが忠臣蔵には 750 もある」と語っておられたが、この場面は忠臣蔵の数あるハナシの中でも最も感激する場面のひとつだ。
映画(やドラマ)などでは涙なしには見られない。

この話を 98 歳という高齢の天龍三郎さんは寒い中、結構な薄着で1時間10分も熱演された。
その体力に驚くと同時に、暖房してあげるとかも少しなんとかならなかったかと心が痛んだ。
(あとで調べたらきょうの京都は昼間でも最高気温 8.9℃ という冷え込みだった)

天龍三郎さんの熱演
天龍三郎さん演じる 大石東下り

岩屋寺は浪曲と深い縁故があるらしいことをあとで知った。

桃中軒雲右衛門(くもえもん)という浪曲師が 忠臣蔵義士命名伝 を完成させ、明治40年にこの忠臣蔵ゆかりの岩屋寺に石灯籠を寄進した。
そしたらその3か月後に 忠臣蔵義士命名伝 が大ヒットして一世を風靡し、“浪曲中興の祖”といわれるようになったという。
また、隣接する大石神社はいまから約80年ほど前に創建された新しい神社だが、当時(昭和初期)の関西浪曲界の大スター 二代目吉田奈良丸という人がこの創建に尽力されたという。
面白い因縁だと思った。

2013.12.14









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