巨椋池跡を歩く

2015.9.27

きょうは或る 「街歩き」 の団体の催しに参加して巨椋池(おぐらいけ)跡を歩いた。

巨椋池というのは戦前まで京都の南にあった大きな池の名前だ。
宇治川・木津川・桂川という3つの大きな川が合流して淀川になる場所にあった。
ちょうど、関東でいうと利根川・渡良瀬川・思川などが合流する場所にある遊水池(渡良瀬遊水池)に似ている。

巨椋池の広さは時代や季節のよりまちまちだったらしいが、大体 いまの単位で1,000ヘクタール(10k㎡)ほどの大きな池だったそうなので、東京の中央区とか台東区とかの面積に相当する。
まずはこの地図 をご覧ください。
そして、真ん中に赤い点線で示した 「太閤(たいこう)堤」 を頭に入れといてください。

巨椋池
これは うしさんという方のホームページ「巨椋池②」
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/ogura3.html
に載っていた地図を改変したもの
豊臣秀吉の頃までの巨椋池(おぐらいけ)付近の地図である

池といっても水たまりみたいなもので、水深は普段は1~2メートルだったそうで、大雨の後になると4~5メートルになったそうだ。

巨椋池は昭和10年代に干拓 (埋め立てではなく、池の水を排水して陸地にすること) されたという。

四神相応西暦794年に(みやこ)が京都に移された。
京都(当時の平安京)は四神相応(しじんそうおう)といって四方に土地を守る神をイメージした。
北に山、東に川、西に道、そして南は「水」だった。
この地図の上(北)に平安京があるので、ちょうどここは都の南。
ここに巨椋池があった。
四神相応にぴったりだ。
巨椋池はそんな役割も果たしてきた。

ところで、この地図の下(南)は奈良(平城京)である。
京都から奈良へ行くには巨椋池を迂回しなければならなかった。
地図の右の方にある 「大和街道」 「奈良街道」 だ。

16世紀、土木・建築に才能を発揮した豊臣秀吉は、池の真ん中に道を設け 「奈良街道」 に直結した。
その道を 「太閤堤」 という。
いまはそこを 近鉄線 が走って京都・奈良を結んでいる。
ちなみにJRは巨椋池を迂回している。
地図の 「大和街道」 のルートだ。

前置きが長くなったが、地理的なことはわかっていただけたかと思う。

さてきょうの 「街歩き」 の集合地点は 近鉄 向島(むかいじま)駅。

近鉄向島駅
「むこうじま」 かと思ったら 「むかいじま」 だそうだ

集合場所にある駅前のバス停の時刻表を何気なく見たら月1回の運行で仰天した。
こりゃギネスものだ ! と思い、カメラを出してきてパチリ。

バス停「向島駅」の時刻表
字が小さくて読みにくいが 「※=〔毎月第二日曜日〕のみ運行」 と書いてある。

バス停「向島駅」
立派なバス停だ
喜撰猿丸さんの 2012/02/05(日) 付けブログの写真ではペンキが剥げてボロボロだった

ウチに帰ってインターネットを調べたら、大津在住の喜撰猿丸さんという方が書いておられる 2012/02/05(日) 付けのブログがあった。
この方は 「恐らく、一般路線バスとして全国最少の本数ではなかろうか (もっと少ないところをご存知の方、お知らせ下さい) 」 と賞賛(?)しておられる。
(原文は http://contrapunctus.blog103.fc2.com/blog-entry-366.html

そのブログに対して T.F. という方の 2012/02/06(月) 付け投書も 同じページに載っていた。
「(滋賀県西部の) 江若(こうじゃく)交通 に年1回、9月5日のみ運行される路線があります。北小松と近江高島のほぼ中間地点にある白髭神社のお祭りの日で、安曇川駅~近江高島駅~白髭神社前~北小松駅間に途中折返し便も含めて24往復運行されます。奈良交通は月1往復、年間12往復ですので運行本数はこちらの方が少ないです

やっぱり、日本最少記録らしい。

月1回何かの催しがあるので、そのための乗客用かと思ったけど、そうでもなさそうだ。
このバス路線は <向島駅←→大川原> 間約2キロと、これまた短い !!
終点の大川原には奈良交通の京都営業所があるんです、と喜撰猿丸さんに教えてもらった。

またも話が脱線したが、いよいよ 「街歩き」 のスタート。
上の地図を再掲しておきます。

巨椋池(おぐらいけ)付近の地図

向島駅 (地図に黒字で 「向島」 と書いてあるところ) から歩き始めて しばらく行くと太閤堤の上に出た。
1594年 (文禄3年) 頃に豊臣秀吉が築いた。
この地図の赤い点線部分だ。
奈良へ行く近道だということがよくわかる。
当然 「大和街道」 はこちらに付け替えられた。
だから、それ以降、江戸時代~明治時代はけっこう賑わったのだろう。

小倉堤
旧「大和街道」
両側の低いところには巨椋池の水が来ていただろう。

エノキの巨木が街道沿いに残っている。
なんとも言えないビミョーなカーブが古い街道の雰囲気にぴったりだ。

・・・ そして、あちこち歩いた末にやってきたのが、填島(まきしま)城の跡。

上の地図の右の方に 填島城 と書いていある箇所だ。
ガイドの方の説明によれば、ここで室町幕府は滅んだ んだそうだ。
へぇー、そうだったのか。

資料によると、
室町幕府第15代将軍足利義昭は織田信長と対立しこの城に立て籠もった。
しかし織田信長に攻められて降参。
義昭は信長によって京都を追放され、事実上、室町幕府はこの時点で滅んだ。

という。
太閤堤が築かれる約20年前の1573年(天正元年)のことだ。
城といっても天守閣があるわけでもなく、島に築かれた 「砦」 みたいなもんだったのだろう。
義昭敗走後もしばらく城は存続したが、太閤堤が築かれた頃に放棄され、昭和になって干拓されて、戦後 住宅地となり、いまでは 「この辺にあった」 というだけで 砦(填島城) のかけらは何も残っていない。

填島城跡の石碑
室町幕府はここで滅ぶ、2015.9.27 15:25 PM

その 砦(填島城) の推定地に立つ石碑だが、「街歩き」 ガイドさんは 「下見に来たときこの石碑がどこにあるかわからへんで苦労した」 こぼしていた。
それもそのハズ、住宅が立て込んだ中の小さな公園にポツンと立っているだけだった。

きょうは 1万2000歩の 「街歩き」 だった。

2015.9.27











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名前が しょうじ なので障子が背景となっている。ペンネームはアルファベットで shochan(しょうじの愛称)だが数字 31 の由来は不明だ。

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