義満という人物

2016.7.9

きのうTVで放送されたことが、きょうの朝刊で大きく報じられていた。
京都・金閣寺 (当時は足利義満(よしみつ)の別荘で 『北山殿(きたやまどの)』 と呼ばれていた。義満の死後、寺院に改められて 鹿苑寺(ろくおんじ) となった。金閣寺は鹿苑寺の通称。) にも大きな(高い)七重塔があったというのだ。
知らなかった。
その七重塔 『北山(だい)塔』 の相輪(そうりん)の破片が発掘され、塔の存在が初めて確かめられたという。

kitayama-daitoh_087.jpg
きょうの京都新聞朝刊 2016.7.9 第1面

その破片が、ウチの近くの考古資料館できょうから展示されたので見に行った。

金銅製相輪破片
金銅製相輪破片の展示風景、きょう考古資料館で
うしろの図は、コンピューターグラフィックスで復元された『北山大塔』

普通に見たら 何なのか全くわからない。
発掘されたのが去年の4~7月だというから、鑑定が難しく約1年もの時間がかかったと想像される。
専門家の鑑識眼がなかったら、『ガラクタ』として パワーショベルで一括処分されていたんではないか。
それを思うとゾッとする。

相輪というのはいわゆる「九輪(くりん)」のことで、丸みを帯びている。

sohrin_087.jpg
shi*on*7j* さんのブログ「徒然なるまま」より転載
(http://blogs.yahoo.co.jp/shimon17jp/61841356.html)

この写真は福岡市の東長寺五重塔建立(2011年春完成)のときの風景だが、この五重塔は高さ 26 メートルだという。
『北山大塔』 の高さは「360尺」。
1尺=10寸=30.3cm で計算すると、109メートル となる。

きょうの展示品(発掘品)でもわずかにカーブが見られるが、なにしろ高さが109メートルもある大塔なので、福岡の高さ 26 メートルの比ではない。

金銅製相輪破片
去年発掘された金銅製相輪破片 普通に見たら 何なのか全くわからない

この破片を「相輪の破片」だと判断した 専門家の鑑識眼 にはまったく敬服する。

しかもこの 『北山大塔』 は下に述べる『七重大塔』とともに高さが109メートルもあり、日本歴史史上最も高い建築物で、その記録は大正3年(1914年)12月完成の日立鉱山の煙突(高さ155.7メートル)竣工までのおよそ515年間破られなかった、という。

『北山殿』の 『北山大塔』 は1404年(応永11年)に着工、未完成のうちに 1416年(応永23年)落雷で焼失するが、(← これが、今回相輪の破片が発見された塔)
義満は、その前にも相国寺(しょうこくじ)(義満が建てたお寺)に『七重大塔』を建てていたという。(← これも高さが109メートルあったという、この記録が日立鉱山の煙突ができるまで日本歴史史上最も高い建築物の記録をもつ)
それは、1393年(明徳4年)着工、1399年(応永6年)落慶、1403年(応永10年)落雷で焼失したという。

つまり、1403年(応永10年)落雷焼失したので、翌年、同じものを『北山殿』(足利義満の別荘)に建てたということになる。
高さ109メートル(360尺)もある史上最大最高の塔を、である。

足利義満は、室町幕府第3代将軍で金閣寺を建てた人物として有名だ。

しかし、彼は相国寺(自らの寺院)という大伽藍の寺院を建て、境内に史上最大最高の塔『七重大塔』を建て、落雷焼失するやすぐに『北山殿』(自らの別荘)に同じものを再建したのだった。足利義満像
知らなかった。

足利義満ってそんな権力者だったのか。

調べてみたら、義満は当時の(みん)洪武(こうぶ)帝から「日本国王」の称号で呼ばれたらしい。
しかも、武家の出であるにもかかわらず宮中祭祀まで執り行い、地天の君として国家的規模の大祈祷(これを北山殿大法という)を行い、南北朝の統一を成し遂げ、これは(うわさ)であるが、当時の天皇(99代 後円融天皇)の息子(100代 後小松天皇)は義満の子だとの説もあるらしい。

しかも102代後花園天皇の父(定成(さだふさ)親王/後崇高院)も義満の子だとの説もあるらしい。

な、なんということか。
右の肖像画は鹿苑寺(ろくおんじ)に伝わり、いまは「承天閣美術館」に所蔵されている 足利義満像 だが、座っている畳の(へり)の模様は「繧繝(うんげん)模様」(繧繝(べり))といって天皇の玉座にしか使われない模様(もんよう)だという。
義満が繧繝模様の畳に座っているのは、天皇と同等の(くらい)を表しているのではないか ・・・ とか。
実際、義満が1408年(応永15年)に亡くなると朝廷から「太上(だいじょう)天皇」の尊号を贈られた。(「太上天皇」とは天皇が譲位したのちに贈られる尊号でいわゆる「上皇」のこと。 ただし、息子の第4代将軍・義持がこれを辞退したが)

我が国の歴史上には、藤原道長、(たいらの)清盛、豊臣秀吉、徳川家康 ・・・ と、そうそうたる大人物が居並ぶが、その中でも足利義満は群を抜いているのではないか。
知らなかった。

足利義満がそれほどの大人物なのに、金閣寺を建てた人物程度にしか知られていないのは(尤も、知らないのは私だけかもしれないが)、天皇家の血統を奪ったという黒い(うわさ)のせいだろうか。

七重塔の相輪の破片が確認されたのを契機に、足利義満という人物の、別の一面を初めて知った。
そして、彼の人物像をさらに詳しく知りたくなった。

きょうの私でした。

---------------------------------------

余談になるが、『北山殿』の大塔が1416年(応永23年)落雷で焼失したあとも(そのとき義満は亡くなっていた)、相国寺には2度、『七重大塔』が再建されたが、2度とも落雷で焼失したという。(第二代は 1425年(応永32年)に焼失、第三代は 1470年(文明2年)に焼失)
なんということか。
自然災害にも黙々と立ち向かう昔の人の偉さがしみじみとわかった。

2016.7.9










コメントの投稿

非公開コメント

筆者のプロフィール ↓

shochan31

Author:shochan31
名前が しょうじ なので障子が背景となっている。ペンネームはアルファベットで shochan(しょうじの愛称)だが数字 31 の由来は不明だ。

最近書いた記事 ↓
月別アーカイブ ↓
このブログ内を検索できます ↓
管理者専用 ↓