400年前のイベント

2017.5.18

明治維新まで 天皇のおられた内裏(だいり)があった土地 (その場所はいまそのままある) の産土神(うぶすなかみ)御霊(ごりょう)神社だそうだ。

昔、疫病(伝染病や食中毒)はたくさんの死者が出るため最も恐れられていたものの一つだった。
当時、疫病は非業の死を遂げた人の霊(御霊)のたたり(怨霊(おんりょう))と考えられていた。
平安遷都の前に非業の死を遂げた早良(さわら)親王の怨霊を鎮めるために、平安遷都の年(794年)に桓武天皇が創建された神社で、それゆえに 『御霊神社』 と呼ばれるようになった。

江戸時代、御霊神社のお祭り(御霊祭)の行列が内裏の朔平(さくへい)門を訪れ、そこで天皇や皇族方に神輿(みこし)をご覧いただいていたが、明治になって天皇がおられなくなってからは祭の内裏訪問は途絶えていたという。
そして、平成21年(2009年、いまから8年前)に祭の行列の内裏巡行が復活したのだそうだ。

・・・ という話は聞いていたが、御霊祭の行列は見たことがなかった。
きょう5月18日は長い伝統のある御霊祭ということで、見に行った。

まず剣鉾(けんぼこ)が2本、次いで牛車(ぎっしゃ)が 朔平門の手前にある御門をくぐったあと、3基の神輿(みこし)が入っていった。

この神輿( )は3基のうちの2基め。
北之御座・今出川口の神輿で、元和5年(1619年)に後水尾(みずのお)天皇が即位されたとき、不要となった先代の後陽成天皇の鳳輦(ほうれん)を下賜されて神輿にしたものだそうだ。

御霊祭の神輿が御門から入る
2017.5.18 17:33 PM

「ホイト ホイト」の掛け声に合わせて、神輿は御門から内裏の朔平門に向かう。

御霊祭の神輿が内裏に向かう
2017.5.18 17:37 PM

朔平門前に到着した3基の神輿。
いまは天皇は不在だが、祭文を奉じる。
もう6時近くで太陽が西に傾いているが、きょうは快晴で日差しはきつい。

神輿3基を内裏前に並べて祭文を奉じる
2017.5.18 17:45 PM

そして1基ずつ、天皇不在の朔平門前で神輿振りを行う。
晴天続きで乾いているため、砂ほこりが舞う。

朔平門まえで振るう御霊祭の神輿
2017.5.18 18:01 PM

神輿を振ることで、神輿に乗る神様(御霊)に清めていただき疫病を取り去る効果があるのだそうだ。
一緒に見ていた隣の人が解説してくれた。

祭の行列は再び鎮守地域の町を練り歩いて神社に戻って行った。

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後陽成天皇の鳳輦と聞いて、じゃぁ後陽成天皇はこの鳳輦に乗って聚楽第(じゅらくてい)に行幸されたのか。(天正16年(1588年)と天正20年(1592年)の2回)
そう思うと、400年以上昔のイベント が急に身近に感じられたのであった。

2017.5.18











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名前が しょうじ なので障子が背景となっている。ペンネームはアルファベットで shochan(しょうじの愛称)だが数字 31 の由来は不明だ。

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