明智藪はいま
2019.4.18
天正10年(1582年)6月13日。
本能寺の変で織田信長を倒したその11日後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、なおも勝竜寺城(現、長岡京市)に籠って抵抗。
しかし利あらずして、その夜、雨と夜陰にまぎれて城を脱出。
自らの本拠地・坂本城を目指したが、その途中、山科の小栗栖(おぐるす)の藪の中で落武者狩りが繰り出した槍に脇腹を突かれて落命した。
これは明智光秀の最期を語る有名なエピソード。
きょうは機会があって、私の属するグループの人々と小栗栖を訪ねた。
現地に近づくと、地元の団体が建てた碑があった。

明智藪の碑(平成3年2月建之)
右の説明碑には
小栗栖の竹藪は 『明智藪』 と呼ばれているのだ。
ガイドの方の説明では、当時は近くに小栗栖城があり、その城主が飯田左近将監(飯田左吉兵衛?)という人物だという。
その飯田左近が率いるのが「飯田一党」という武士集団で、飯田氏は織田信長の近臣だった、という。
小栗栖城の跡はいま小栗栖八幡宮になっており、実際行ってみると小高い丘になっていた。
飯田家は小栗栖八幡宮の神主も兼ねていたという。
飯田左近が織田信長の近臣なれば、明智光秀がそれを知らないはずはなく、どうしてこんなところを通ったのか。
たしかにここは山崎と近江の坂本をむすぶ近道だから、この道を急いだのか、或いは夜陰で道を間違えたのか、その辺はわからない。
石碑の横の矢印に従って進むと急に開けて明るくなった。

明智藪へ向かう
そして、そこには 『明智藪(あけちやぶ)』 と書かれた木の新しい標識が建てられていた。
ここが殺人現場という訳だ。
しかし、現場付近にはパワーショベルが入り、目下開発中らしかった。

ここが討たれた現場
マンションが建つのか公園になるのか。
いずれにしてもえらい明るいところだった。

明智藪を示す新しい標識
ガイドの方から、5年ほど前にここを訪ねたときの写真を見せてもらった。
当時は鬱蒼としていたようだ。


2014年11月8日撮影
ガイドの方によれば、それこそ、夜陰に乗じて討たれた・・・ と思える場所だったそうだ。
しばらく行くと 「飯田」 という表札のかかった家があった。
ガイドの方が飯田さんから聞いた話では、飯田は偶然の一致にすぎず、飯田左近の末裔ではないという。
しかし、立派な家だったので 「もしかして・・・ 」 と思わせた。
仮に末裔かなにかの縁者としても、殺人犯の末裔か縁者とは思われたくない思いだろう。
4百数十年昔の話だ。
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永年保存されてきた歴史の舞台「明智藪」もいまは切り開かれて失われてしまった。
単なる郷愁でなく、残念だ。
きょうの私でした。
2019.4.18
天正10年(1582年)6月13日。
本能寺の変で織田信長を倒したその11日後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、なおも勝竜寺城(現、長岡京市)に籠って抵抗。
しかし利あらずして、その夜、雨と夜陰にまぎれて城を脱出。
自らの本拠地・坂本城を目指したが、その途中、山科の小栗栖(おぐるす)の藪の中で落武者狩りが繰り出した槍に脇腹を突かれて落命した。
これは明智光秀の最期を語る有名なエピソード。
きょうは機会があって、私の属するグループの人々と小栗栖を訪ねた。
現地に近づくと、地元の団体が建てた碑があった。

明智藪の碑(平成3年2月建之)
右の説明碑には
途中小栗栖の附近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。(原文のまま)
と書かれている。小栗栖の竹藪は 『明智藪』 と呼ばれているのだ。
ガイドの方の説明では、当時は近くに小栗栖城があり、その城主が飯田左近将監(飯田左吉兵衛?)という人物だという。
その飯田左近が率いるのが「飯田一党」という武士集団で、飯田氏は織田信長の近臣だった、という。
小栗栖城の跡はいま小栗栖八幡宮になっており、実際行ってみると小高い丘になっていた。
飯田家は小栗栖八幡宮の神主も兼ねていたという。
飯田左近が織田信長の近臣なれば、明智光秀がそれを知らないはずはなく、どうしてこんなところを通ったのか。
たしかにここは山崎と近江の坂本をむすぶ近道だから、この道を急いだのか、或いは夜陰で道を間違えたのか、その辺はわからない。
石碑の横の矢印に従って進むと急に開けて明るくなった。

明智藪へ向かう
そして、そこには 『明智藪(あけちやぶ)』 と書かれた木の新しい標識が建てられていた。
ここが殺人現場という訳だ。
しかし、現場付近にはパワーショベルが入り、目下開発中らしかった。

ここが討たれた現場
マンションが建つのか公園になるのか。
いずれにしてもえらい明るいところだった。

明智藪を示す新しい標識
ガイドの方から、5年ほど前にここを訪ねたときの写真を見せてもらった。
当時は鬱蒼としていたようだ。


2014年11月8日撮影
ガイドの方によれば、それこそ、夜陰に乗じて討たれた・・・ と思える場所だったそうだ。
しばらく行くと 「飯田」 という表札のかかった家があった。
ガイドの方が飯田さんから聞いた話では、飯田は偶然の一致にすぎず、飯田左近の末裔ではないという。
しかし、立派な家だったので 「もしかして・・・ 」 と思わせた。
仮に末裔かなにかの縁者としても、殺人犯の末裔か縁者とは思われたくない思いだろう。
4百数十年昔の話だ。
永年保存されてきた歴史の舞台「明智藪」もいまは切り開かれて失われてしまった。
単なる郷愁でなく、残念だ。
きょうの私でした。
2019.4.18
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