男山に登る

2019.12.19

きょう男山(おとこやま)に登る機会があった。
京都盆地の南に位置する山で、山上には石清水八幡宮(いわしみず・はちまんぐう)がある。
標高はわずか143 mの独立峰。麓が12mほどなので、標高差は130mほどだ。

石清水八幡宮は国家鎮護の神宮で、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟(そうびょう)とされている。

男山
歩いて登る

普通はケーブルカーで登る。
きょうは故あって表参道を歩いて登った。

きょう初めて知ったのだが、この辺りには『男山四十八坊』と呼ばれる宿坊が多数建っていたそうだ。

曰く ― 
神仏混淆の頃は、石清水八幡宮は神社であるにもかかわらず本殿では毎日読経が流れ、僧侶が社務を取り仕切っていた。
その僧侶らが住まいしていたのが「坊」とよばれる寺院で、遠くから石清水八幡宮に参拝する旅人を泊める宿坊でもあった。
それが明治元年の神仏分離令によってすべて撤去された。
という。
もったいない話だ。
・・・ そんなことを聞きながら落ち葉の散り敷く道を登る。

男山
宿坊跡の石垣に沿って表参道が続く

しばらく行くと石垣があった。
これはその 『男山四十八坊』 の宿坊の跡で、石垣だけが残っているのだそうだ。

やや行くと男山四十八坊の一つ、豊蔵坊の跡という案内板があった。

男山
豊蔵坊の跡

読めば 「徳川家康の祈願所」「徳川家の坊として栄えた」 とある。
そして、「文久3(1863)年、孝明天皇が攘夷祈願を行った場所として有名」 との一節。
うん、孝明天皇が行幸された話は聞いたことがある。

当時はケーブルカーがなかったので、孝明天皇はこの表参道を登ってここまで来られたのだろう。

調べたら、
〔文久3年4月11日=当時の旧暦〕 朝内裏を出た一行は夕方男山の麓に着かれた。
天皇は板の輿に載って登られ、ここ〔豊蔵坊〕に到着して宿舎とされた。
丑の刻(午前2時頃)石清水八幡宮で攘夷祈願され、将軍後見職・徳川慶喜に攘夷の節刀(せっとう)を授けようとしたが、慶喜は急に下痢をおこし麓で横になっていた。
〔徳川家茂は急病のため行幸のお供を辞退していた。〕
とのことだった。
節刀は敵を平らげるため大将に授けられる刀で、受け取ってしまうと攘夷せねばならなくなる。
将軍家としては開国の条約を諸外国と結んでしまっているので、いまさら攘夷などできない。
将軍家は進退窮まったところで、ストレスのため腹痛をおこした、という訳か。
結局、家茂も慶喜も節刀授与は避けられた ・・・

やがて石清水八幡宮の社殿。

南総門
南総門

厄除開運を祈願してから、社殿周りを一周する。
廻廊の東北角が鬼門封じのために削られていた。

鬼門封じ
鬼門封じの切り込み

鬼は角(かど)から侵入してくるという。
京都市内で見かける鬼門封じは四角く切り込んであるが、それだと角が増えて二つになる。
リスク倍増で 逆効果だ。
しかし、斜めに削れば角がなくなる。
すばらしいアイデアだ。

感心して山を下りた。
帰りは、急ぐのでケーブルカーで下りた。
ほんとは歩いて下りたかったのに ・・・。

2019.12.19







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名前が しょうじ なので障子が背景となっている。ペンネームはアルファベットで shochan(しょうじの愛称)だが数字 31 の由来は不明だ。

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