圓徳院で疑問4連発

圓徳院 | 長谷川等伯2021.10.30

きょうは、不遇の画家・長谷川等伯異色の作品として私が注目している絵が京都東山の圓徳院(えんとくいん)というところにあると聞いて、見に行った。

圓徳院
圓徳院の入口

圓徳院は正式には高台寺の塔頭とされているので 『お寺』 なのだろう。
しかしご本尊はないので、巷間 『お寺』 といわれるのは疑問だ。

私はここは 〔ねねさんの〕『お屋敷(邸宅)』 の跡だと思う。
実際、圓徳院でもらったパンフレットにも 『お寺』 とは書かれていない。
『お寺』 と書くには気がとがめたのだろうか 『秀吉の妻、北政所ねね終焉の地』 と書かれている。

ところが、巷間 『ねねさん終焉の地』 といわれているのも疑問だ。
かれてから、私はねねさんは上京の高台院屋敷で亡くなったと思っている。
疑問だらけなのがこの圓徳院である。

さて、私がかねてより見たいと思っていたのは、長谷川等伯の襖絵 「山水図」 だった。
それは、屋敷に上がって最初の部屋(『方丈』)にあった。

圓徳院
これがその絵 「山水図」

天正17年(1589年)のことである。
長谷川等伯は、大徳寺の三玄院で襖絵を書かせてほしいと懇願したが許してもらえなかった。
そこで、三玄院の住職が留守の間に部屋に上がって書いたのがコレだという。
人口に膾炙している有名なエピソードだ。

桐形紋を一面に押した唐紙の襖は、多分ありあわせの襖でたまたまそこにあったのだろう。
墨一色で描いたものだが、全部で36枚もあるとのことで、住職が留守の間にチョコチョコと書けるもんではない。
これも私にとっては疑問だった。
きょう、襖絵の説明文に 「住職が2か月の旅行中に」 と書いてあって、やっと納得できた。
ま、2か月もあれば描けるだろう。

圓徳院
「住職が2か月の旅行中」 なら納得できる

もひとつ疑問なのが、大徳寺三玄院にあった襖絵がなぜ縁もゆかりもない圓徳院にあるのか。
※ 註 大徳寺、高台寺ともに臨済宗のお寺という共通点はある。
従って、両者が縁もゆかりもないと書くと誇張すぎるといわれそうだ。

調べてみると、襖絵は明治初めの廃仏毀釈で流出したという。
そしていま、36枚のうち32枚が圓徳院、4枚が〔陶芸の〕楽家にあるという。
話し合いなのかオークションなのかわからないのでこれも疑問が湧くが、とにかく圓徳院に来た経緯は廃仏毀釈にあるそうだ。
※ 註 圓徳院の32枚は毀損を防ぐため、国立京都博物館と石川県・七尾美術館に分けて寄託され、楽家の4枚は同じく楽美術館の所蔵となっているという。
きょう私が圓徳院で見たのはレプリカらしい。

圓徳院で見ごたえのあったのが、北側の屋敷の東側に広がる庭園 「北庭」 だ。
醍醐・三宝院の庭に似て巨石をふんだんに配した豪華な造りの枯山水庭園だ。
パンフレットによれば、秀吉の伏見城から移したもので、当時の原型を残すという。
なるほど立派だ。
さすが豊臣秀吉である。

圓徳院
「北庭」 と称される庭

圓徳院のあるあたりは八坂(やさか)と呼ばれる景勝地で、観光スポットも多い。
コロナ禍が完全になくなったわけではないが、きょうは土曜とあって観光客が戻ってきていた。
喜ばしい。

八坂庚申堂
観光客でにぎわうきょうの八坂庚申堂


2021.10.30







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名前が しょうじ なので障子が背景となっている。ペンネームはアルファベットで shochan(しょうじの愛称)だが数字 31 の由来は不明だ。

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