他に類を見ないお墓
2022.11.19
豊国廟 | 石段 | 阿弥陀が峰 | 豊臣秀吉
ひとつの山がひとりのお墓になっている。
それに似たものに円墳(或いは前方後円墳)があるが、その最大の仁徳天皇陵とは比較にならないくらい大きい。
尤も、仁徳天皇陵は人工の山なので、それ自体はスゴイことだが。
ひとつの山がひとりのお墓になっている ― それは、京都東山三十六峰のひとつ「阿弥陀が峰」の頂上にある豊臣秀吉の墓だ。
『豊国廟(ほうこくびょう)』 と称す。
他にこんなお墓が世界にあるのかどうか知らないが、とにかく 他に類を見ないお墓 だ。
きょうは、その「阿弥陀が峰」に登った。
京都に住んでいながら、登るのは初めてだ。
標高差 130m 程度の山である。

一の鳥居、あの向こうに見えるのが「阿弥陀が峰」
二の鳥居の先が平らな広場になっている。
ここは「太閤坦(たいこうだいら)」と呼ばれる広場で、このお墓が作られたとき、秀吉の遺骸は山頂に葬り(実際は酒を満たした大きな甕の中に遺骸を入れた)、ふもとのこの地に神社『豊国社(とよくにのやしろ)』を建てて秀吉を祀ったという。
秀吉が亡くなったのが1598年(慶長3年)で、その翌年に『豊国社』が創建されたが、その16年後の慶長20年(1615年)に豊臣氏は滅亡しいた。
それ以降、『豊国社』は朽ちるにまかせて消滅同然となった。
この地すなわち「太閤坦」は、朽ち果てた『豊国社』の社殿等を明治30年頃整備していまのような広場になった場所につけられた呼び名である。

太閤坦、かつて『豊国社』の社殿等のあった跡地の呼称
「太閤坦」の端、山頂への石段が始まる手前にあるのが「拝殿」だ。

「拝殿」の向こうに 山頂へ登る石段が見える
で、いよいよこれから石段を登り始める。

石段をただ黙々と登る。

63段登るごとに踊り場があった。
「63」とは何の数か。
インターネットには「秀吉の生涯 63 年にちなんで石段は 63 にした」との説があった。
しかし、秀吉の誕生は天文6年(1537年)2月6日なので、亡くなったのは「かぞえ」62歳のときだから、おかしい。
なにかからくり があるかもわからないと思ってさらに調べていると、秀吉は天文5年(1536年)1月1日に生まれたという異説があった。
1月1日は元旦で縁起のいい日だし、母が日吉神社に祈願して生まれたので幼名を「日吉丸」というし、日吉神社のお使いは「猿」だし、天文5年は申歳なので、「天文5年」説は創作ではないかと疑われる。
しかしこの天文5年(1536年)1月1日生まれ説に従えば、秀吉が亡くなったのは「かぞえ」63歳のときとなり、「63」は現実味を帯びてくる。
実際、「太閤坦」の「拝殿」の手前にある「神札授与所」でもらった「豊国神社参拝の栞」には「豊太閤は六十三才で薨去せられ ・・・ 」と明記されている。
だから「63」はあながち間違った数字とは言えないようだ。

石段を 「63段」 「63段」 「63段」 「63段」 と登ったあとは、・・・ 「61段」 となっていた。
これで合計 313段だ。
登りきると石畳があり、4段の石段と「唐門」がある。

唐門
その先が幅の細い石段で、最後の登りだ。

最後の石段
数えてみると 172段 あった。
それを登ると頂上だ。
313+4+172=489。 石段はぜんぶで489段あった。

頂上到着
頂上には石畳の先、玉垣に囲まれた五輪塔がある。
この五輪塔は明治30年(1897年)に新設されたもので、それ以前はここに秀吉の遺骸を入れた上述の甕が埋められていた。
その甕は 五輪塔新設工事中に不手際で壊れ(割れ)、酒は流出し、秀吉のミイラは空気に触れて崩壊したという。
慌てて遺骨を収集し、絹布に包み桐箱に納め、さらに銅櫃、石櫃に納め丁重に葬ったという。
五輪塔の下には遺骨が葬られているはずである。

大五輪塔
なお、この五輪塔は伊東忠太の設計(デザイン)によるという。
しかし、五輪塔は誰が設計しても(誰がデザインしても)同じカタチの五輪塔で、寸法が違うだけだ。
伊東忠太は、自分のアイデアが生かせずホゾ(臍)をかんだことだろう。
この五輪塔、インターネット等どこにも 「高さ10m」 とあるが、そんなにあるようには思えなかった。
さて、山頂、五輪塔の玉垣の北側の茂みの間からは国宝「清水の舞台」が真正面に見えて感激した。

「清水の舞台」だけでなく、その左に続く諸堂、三重塔、西門 ・・・ と 清水寺 の全貌が眺められるではないか。
地図を照合すると、〔清水寺の〕西門の先には 高台寺 があるはずだ。
以前 高台寺の霊屋(おたまや)に行ったときの記事に
あのときは高台寺から阿弥陀が峰を望んだが、きょうは逆に阿弥陀が峰から高台寺を望んでいるのだ。

きょうは、〔多分〕 世界に他に類例を見ないと思われるお墓、つまり阿弥陀が峰に初めて登ったが、標高差 130m 程度なので、苦もなく登れた。
2022.11.19
ひとつの山がひとりのお墓になっている。
それに似たものに円墳(或いは前方後円墳)があるが、その最大の仁徳天皇陵とは比較にならないくらい大きい。
尤も、仁徳天皇陵は人工の山なので、それ自体はスゴイことだが。
ひとつの山がひとりのお墓になっている ― それは、京都東山三十六峰のひとつ「阿弥陀が峰」の頂上にある豊臣秀吉の墓だ。
『豊国廟(ほうこくびょう)』 と称す。
他にこんなお墓が世界にあるのかどうか知らないが、とにかく 他に類を見ないお墓 だ。
きょうは、その「阿弥陀が峰」に登った。
京都に住んでいながら、登るのは初めてだ。
標高差 130m 程度の山である。

一の鳥居、あの向こうに見えるのが「阿弥陀が峰」
二の鳥居の先が平らな広場になっている。
ここは「太閤坦(たいこうだいら)」と呼ばれる広場で、このお墓が作られたとき、秀吉の遺骸は山頂に葬り(実際は酒を満たした大きな甕の中に遺骸を入れた)、ふもとのこの地に神社『豊国社(とよくにのやしろ)』を建てて秀吉を祀ったという。
秀吉が亡くなったのが1598年(慶長3年)で、その翌年に『豊国社』が創建されたが、その16年後の慶長20年(1615年)に豊臣氏は滅亡しいた。
それ以降、『豊国社』は朽ちるにまかせて消滅同然となった。
この地すなわち「太閤坦」は、朽ち果てた『豊国社』の社殿等を明治30年頃整備していまのような広場になった場所につけられた呼び名である。

太閤坦、かつて『豊国社』の社殿等のあった跡地の呼称
「太閤坦」の端、山頂への石段が始まる手前にあるのが「拝殿」だ。

「拝殿」の向こうに 山頂へ登る石段が見える
で、いよいよこれから石段を登り始める。

石段をただ黙々と登る。

63段登るごとに踊り場があった。
「63」とは何の数か。
インターネットには「秀吉の生涯 63 年にちなんで石段は 63 にした」との説があった。
しかし、秀吉の誕生は天文6年(1537年)2月6日なので、亡くなったのは「かぞえ」62歳のときだから、おかしい。
なにか
1月1日は元旦で縁起のいい日だし、母が日吉神社に祈願して生まれたので幼名を「日吉丸」というし、日吉神社のお使いは「猿」だし、天文5年は申歳なので、「天文5年」説は創作ではないかと疑われる。
しかしこの天文5年(1536年)1月1日生まれ説に従えば、秀吉が亡くなったのは「かぞえ」63歳のときとなり、「63」は現実味を帯びてくる。
実際、「太閤坦」の「拝殿」の手前にある「神札授与所」でもらった「豊国神社参拝の栞」には「豊太閤は六十三才で薨去せられ ・・・ 」と明記されている。
だから「63」はあながち間違った数字とは言えないようだ。

石段を 「63段」 「63段」 「63段」 「63段」 と登ったあとは、・・・ 「61段」 となっていた。
これで合計 313段だ。
登りきると石畳があり、4段の石段と「唐門」がある。

唐門
その先が幅の細い石段で、最後の登りだ。

最後の石段
数えてみると 172段 あった。
それを登ると頂上だ。
313+4+172=489。 石段はぜんぶで489段あった。

頂上到着
頂上には石畳の先、玉垣に囲まれた五輪塔がある。
この五輪塔は明治30年(1897年)に新設されたもので、それ以前はここに秀吉の遺骸を入れた上述の甕が埋められていた。
その甕は 五輪塔新設工事中に不手際で壊れ(割れ)、酒は流出し、秀吉のミイラは空気に触れて崩壊したという。
慌てて遺骨を収集し、絹布に包み桐箱に納め、さらに銅櫃、石櫃に納め丁重に葬ったという。
五輪塔の下には遺骨が葬られているはずである。

大五輪塔
なお、この五輪塔は伊東忠太の設計(デザイン)によるという。
しかし、五輪塔は誰が設計しても(誰がデザインしても)同じカタチの五輪塔で、寸法が違うだけだ。
伊東忠太は、自分のアイデアが生かせずホゾ(臍)をかんだことだろう。
この五輪塔、インターネット等どこにも 「高さ10m」 とあるが、そんなにあるようには思えなかった。
さて、山頂、五輪塔の玉垣の北側の茂みの間からは国宝「清水の舞台」が真正面に見えて感激した。

「清水の舞台」だけでなく、その左に続く諸堂、三重塔、西門 ・・・ と 清水寺 の全貌が眺められるではないか。
地図を照合すると、〔清水寺の〕西門の先には 高台寺 があるはずだ。
以前 高台寺の霊屋(おたまや)に行ったときの記事に
霊屋は秀吉のお墓がある 阿弥陀が峯 の方を向いて建てられている、という。
いまは木立(こだち)で見えないが、阿弥陀が峯 は指呼の間だから、創建当時はここから見えたのだろう。
と書いたことがあった。(記事は こちら)いまは木立(こだち)で見えないが、阿弥陀が峯 は指呼の間だから、創建当時はここから見えたのだろう。
あのときは高台寺から阿弥陀が峰を望んだが、きょうは逆に阿弥陀が峰から高台寺を望んでいるのだ。

きょうは、〔多分〕 世界に他に類例を見ないと思われるお墓、つまり阿弥陀が峰に初めて登ったが、標高差 130m 程度なので、苦もなく登れた。
2022.11.19